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2019.10.27

# ジストピア、暗黒郷、地獄郷……

10月19日(土)に開かれた

2019年度JACET英語辞書研究会:「英和辞典を日本語から考える」

に行ってきました。いろいろと勉強になりましたが、特に楽しかったのは、やはり見坊行徳さんの「英和辞典のちょっと気になる日本語」。

たとえば、kickstartという動詞に「足けり式始動方式」という死語のような訳語がある(G5)とか、プログラミング言語 Javaの語義が「ジャバ」(G5)だったり「ジャヴァ」(ウィズダム4)だったりする、これは語義ではなく発音を示したものなのかとか、いわば、いつもの国語辞典ナイト的なツッコミです。

そのなかでは、dystopiaの話が特におもしろかったので、手元の辞書で片っ端からdystopiaを引いてみました。

と、その前にひとつだけ。Javaを「ジャヴァ」と書いてるのは、『リーダーズ第3版』と『コンパスローズ英和』(どちらも研究社)も同じですね。



dystopiaというのは、もちろんutopiaの対語で、オーウェルの『1984』みたいな世界を指す、というのがほぼ今どきの通念だろうと思います。日本語では「ユートピア」に対して「ディストピア」がおおむね定着している――と思っていたのですが、辞書の世界ではなかなかそうでもないようです(以下、赤字・太字・下線は引用者)。

●まず、英和の大辞典クラスから見てみました。

1 反ユートピア, 暗黒郷《utopia とは正反対の悲惨な想像上の場所》.【新英和大】

(ユートピアに対して)ディストピア,暗黒郷,地獄郷. 【RHD2】

1地獄郷, ジストピア(を描く作品)(⇔Utopia)《この世のすべての不幸や罪悪で満ちているとされる仮想上の場所[社会, 状況]》.
2欠陥社会. 【G大】

(a) ~ ディストピア, 反理想郷, 逆ユートピア,(架空の)暗黒世界[暗黒郷], (架空の)暗黒体制, (架空の)陰惨な社会[状況], 地獄郷 【うんの6】

n 《ユートピア (utopia)に対して》暗黒郷,地獄郷,ディストピア;暗黒郷を描いた作品. 【R3】
n 《ユートピア (utopia) に対して》暗黒郷, 地獄郷; 暗黒郷を描いた作品. 【R2】


このなかではRHD2がいちばん古いので、「暗黒郷」「地獄郷」という訳語はここらから各辞書に伝播したのでしょうか。見坊さんによると、昔の文献に出てきているそうで、国立国会図書館のサイトを検索したところでは

「暗黒郷」水田栄雄『大英国漫遊実記』明治33年

というのが見つかりました。また、日国ではどちらも立項はありませんが、「煙散霧消」の例文として以下が見つかります。

*一年有半〔1901〕〈中江兆民〉附録・魂胆「果然我政治界は陰謀魂胆の暗黒郷と成り了はれり、光明、正大、豁達、洒落の分子は、漸次に煙散霧消して、痕跡を留めず」

うんのさんは、さすがに訳語が豊富。リーダーズでも、「ディストピア」が追加されたのは第3版からなので、やはりまだカタカナ語は歴史が浅そう。

●次は、英和の学習辞典です。見坊さんが当日ネタにしたのはG5とウィズダム4でした。

地獄郷, ジストピア《この世のすべての不幸や罪悪で満ちているとされる仮想上の場所[社会, 状況]》(⇔utopia)【G5】

(ユートピアに対して)ディストピア, 暗黒郷, 地獄郷, 幻滅郷 (←→utopia).【英和中7】

ディストピア,地獄郷【プログレッシブ英和中5】

(ユートピアに対して)ディストピア, 地獄郷. 【ウィズダム4】

(utopiaに対して)暗黒郷, 暮らしにくい社会【オーレックス2】


やはり「暗黒郷」「地獄郷」が流行です。英和中の「幻滅郷」がちょっとおもしろい。それから、G大もG5も「ジストピア」と表記しているのは、大修館の表記慣習なのでしょうか。暮しの手帖の「スパゲチ」を思い出します(最近もそうなんでしょうか)。

ちなみに、英和学習辞典を少しさかのぼってみたところ、

・ウィズダムは第2版(2007)で記載なし
・ジーニアスは第3版(2001)で記載なし

だったので、採録自体がわりと最近のようです。そのほかの学習英和でも、2000年代の発行だと採録されていません。そんななかで、『角川モバイル英和辞典』は、2000年発行でありながらdystopiaを立項しており、しかも「反理想郷」という、わりとまともな訳語が載っていました。これはなかなかのヒットです。


●続いて英英辞典なのですが、この結果が予想外でした。単に「よくない」「暮らしにくい」くらいの記述が多く、『1984』的な管理社会、非人間的な社会という記載は意外と少ないのです。

an imaginary place where life is extremely difficult and a lot of unfair or immoral things happen 【LDOCE5】

an imaginary place or state in which everything is extremely bad or unpleasant 【OALD8】

an imaginary place where people are unhappy and usually afraid because they are not treated fairly — compare UTOPIA 【MW-AL】

学習英英のレベルはだいたいこんなもんです。CambridgeのLearner'sとCOBUILDには立項もされていませんでした。学習者向けとはいえ、ちょっともの足りない。


●英英の一般辞典になると、学習レベルとかまり変わらないものから、かなり納得できるものまでさまざまです。

(the idea of) a society in which people do not work well with each other and are not happy 【Cambridge Online】

an imaginary place where everything is as bad as it can be 【Collins】

この2つは、学習レベルと大差なく、ちょっとがっかりです。


n 1: state in which the conditions of life are extremely bad as from deprivation or oppression or terror [ant: utopia] 【WNet 3.1】

1. An imaginary place or state in which the condition of life is extremely bad, as from deprivation, oppression, or terror. 【AHD】

1 : an imagined world or society in which people lead wretched, dehumanized, fearful lives 【MW Online】

1: an imaginary place which is depressingly wretched and whose people lead a fearful existence 【MW Unabridged】

An imagined state or society in which there is great suffering or injustice, typically one that is totalitarian or post-apocalyptic. 【Oxford LEXICO】

この辺はさすがに、私たちが知っている「ディストピア」の定義にほぼ一致します。特に、AHDは第3版(1992)ですでにこの定義になっていたので、かなり早かったと言えそうです。


An imaginary place or condition in which everything is as bad as possible; opp. Utopia
1868 J. S. Mill in Hansard Commons 12 Mar. 1517/1 It is, perhaps, too complimentary to call them Utopians, they ought rather to be called dys-topians, or caco-topians. What is commonly called Utopian is something too good to be practicable; but what they appear to favour is too bad to be practicable.
1967 Listener 5 Jan. 22 The modern classics—Aldous Huxley's Brave New World and George Orwell's Nineteen Eighty Four—are dystopias. They describe not a world we should like to live in, but one we must be sure to avoid. 【OED2】

OEDによると、初出はイギリスのJ. S. ミルによる議会演説だそうで、単にutopiaの対義語だったようですね。『1984』とかハクスリーの『すばらしい新世界』のような世界と直接結び付けられたのは、この1967年の引用にあるように、もう少し時代が下ってからなのかもしれません。

同じOxfordだとCDOが6th(1976)から載せているので、やはり早いのですが、語義はOEDと変わりません。

Imaginary place where everythinbgn is as bas as possible.


あと、念のため、「暗黒郷」「地獄郷」の出どころになったか? というRHD2の元本(と同内容の辞典)も確かめてみました。

a society characterized by human misery, as squalor, oppression, disease, and overcrowding. Cf. utopia.
[1865-70; DYS- + (U)TOPIA] 【Random House Webster's Unabridged】

これは私たちの知っている「ディストピア」に近い気がします。1998年なので、わりと早くからこういう説明はあったことになります。


●一方、国語辞典ではまだ立項すらされていない場合が多いというのも、意外な発見でした。

ユートピアとはまったく反対の、想像上の暗黒の世界。▽Distopia【学研国語】

〔ユートピアに対する語〕陰鬱で不安と絶望に満ちた想像上の世界。【大辞林4】

〔ユートピアに対する語〕暗黒世界。【スーパー大辞林3.0】

反理想郷。暗黒世界。また、そのような世界を描いた作品。【デジタル大辞泉】

[小説などで風刺や警鐘として描かれる]理想と対極にある社会・世界。地獄教。暗黒郷。反理想郷。【現新国五~】


『学研国語大辞典』は、発行年(1998)を考えるとかなり収録が早かったと言えます。ただ、原語の綴りを間違えているのが惜しい!

『大辞林』は、先月出たばかりの最新版できっちりした語釈になっています。

小辞典レベルでは、新明解や三国がまだ採録していません。これはちょっと珍しいのではないでしょうか。

『現代新国語辞典』が第5版(2015)から載せています。さすが、「高校生に最適の国語辞典」です。高校生なら「ディストピア」を知っていてほしい、ということでもありますね。


ちょっとおもしろかったのが、『広辞苑』です。「ディストピア」は立項されておらず、以下は「ユートピア」の項です。

トマス=モーアの造語で、どこにもない良い場所のこと。想像上の理想的な社会。理想郷。無何有郷むかうのさと。←→ディストピア 【広辞苑六】
トマス=モアの造語で、どこにもない良い場所のこと。想像上の理想的な社会。理想郷。無何有郷むかうのさと。【広辞苑七】

なぜか、第六版でだけ反義語として「ディストピア」が載っています。が、これが最新の第七版ではまた消えてしまいました。岩波さんはディストピアがお嫌いなのでしょうか(岩国七にも載っていません。八が楽しみ)。


●百科系では、『日本大百科全書』に詳しい記述がありました。

逆ユートピア ぎゃくゆーとぴあ dystopia
ユートピアが「ここにないところ」という原意から「理想社会」をさすのに対して、逆ユートピアは、その反対語(anti-utopiaということばも存在する)であり、否定的に描かれたユートピアを意味する。ディストピアともいう。トマス・モアの『ユートピア』(1516)やウィリアム・モリスの『ユートピアだより』(1890)がバラ色の「理想社会」を描くのに対して、逆ユートピアの先駆とされるサミュエル・バトラーの『エレホン』(1872)では、機械が意識を有し、人間を奴隷にしてしまう。
 このように、とくに近代の産業革命以後の機械文明の発達に対して、その否定的、反人間的な側面を強調して描き出された「未来社会」像のことを逆ユートピアという。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932)やジョージ・オーウェルの『一九八四年』(1949)で描かれた世界は、現代文明に対する逆ユートピアの典型であり、楽観的な技術至上主義への反省を促すものである。
[田中義久] 【日本大百科全書】


また、『現代用語の基礎知識』でも確認できるのは2012年版からなので、やはりわりと新しめということになります。

ディストピア dystopia
反理想郷。公平に分配が行き渡るように国家や指導部がその国民や下部の者に対し徹底した管理をする社会。【現代用語の基礎知識 2012】


というわけで、今回の教訓。

・英和辞典の訳語は、どうしても "出遅れ気味" になることがある

・やや難しい概念になると、学習レベルの英英では足りないことも多い。

中高生の好きそうな単語はやっぱり『現新国』!

02:49 午後 | | コメント (0)

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2019.10.18

# 『イノベーターズ 天才、ハッカー、ギークがおりなすデジタル革命史』1・2巻

ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳という、故スティーブ・ジョブズの伝記以来となる組み合わせの新刊が出ました。

今回、すこしお手伝いさせていただいたので、奥付に名前を載せていただいています。

1910181

なので、あまり褒めると手前味噌になっちゃう気もするのですが、おもしろく読めることは間違いありません。

なにしろ、今日につながるITの歴史をここまで総覧した本は、かつてなかったからです。

目次

第1章 ラブレス伯爵夫人エイダ
第2章 コンピュータ
第3章 プログラミング
第4章 トランジスタ
第5章 マイクロチップ
第6章 ビデオゲーム
第7章 インターネット(ここまで、上巻)
第8章 パーソナルコンピュータ
第9章 ソフトウェア
第10章 オンライン
第11章 ウェブ登場
第12章 エイダよ、永遠に(ここまで、下巻)

コンピューターの歴史というと、第二次大戦後のENIACから、あるいはちょっとさかのぼって戦中の対ナチス暗号戦あたりから始まるのがふつうですが、本書は19世紀初頭、あのエイダ・ラブレスのエピソードから始まります。

19世紀後半にIBMの前身が創設され、20世紀の前半にアナログコンピューターの試みを経て初のデジタルコンピューターが現れる。プログラミングという概念が生まれ、トランジスタが発明されてマイクロチップへと進化する。冷戦時代と60年代のヒッピー文化、サブカルチャー文化を背景にビデオゲームが、そしてパーソナルコンピューターが誕生し、それがソフトウェアによって

産学官の世界でインターネットが出現し、それがオンラインの世界、WWW、ウィキペディアやブログにつながっていく――

IT史でおなじみの名前から初めて目にする名前まで、登場人物はものすごい数にのぼります。なんというか、壮大な「IT大河ドラマ」を目撃しているような気分。しかも、総集編的な通史に終わるのではなく、ちゃんと登場人物をエピソードごとに掘り下げているので、各章に深みがあります。こういうまとめ方が、アイザックソンって、本当にうまいんですよね。

上下巻そろえるとけっこうなお値段になりますが、読み応えはあると思います。

Wiredのこちらの記事も参考になります。

リンク:デジタル時代の創造性は、芸術と科学を結び付けられる人物から生まれた:ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ』から

04:40 午後 | | コメント (0)

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2019.10.05

# 翻訳フォーラム・レッスンシリーズ #15「『翻訳と〝絵〟』ワークショップ」

先週、私が担当した「辞書のホントの使い方」が終わったばかりですが、11/9(土)には次のレッスンシリーズが決まっています。

リンク:「『翻訳と〝絵〟』ワークショップ」(翻訳フォーラム・レッスンシリーズ#15)

1910051

11/9(土)13:00~
定員 35名程度

翻訳フォーラムのシンポジウムやレッスンシリーズでは、ことあるごとに

絵を描く

ということを言います。これを聞いて、どのくらいピンくるでしょうか。

・文芸翻訳じゃないんだから、絵は描けなくていいんじゃない?

・わかる気はするけど、実際にはどうすればいいの?

・絵は苦手~!

・原文から訳文へ、言葉を置き換えてるだけかも―

そんな方は、ぜひ今回のレッスンシリーズにお越しください。

絵がうまい必要はありません。

でも、絵を、イメージを思い描けなければ、それは原文をちゃんと読めたことになりません。原文をちゃんと読めなければ、正しい訳文にはつなげられません

「絵を描く」ことは、「しっかり原文を読み取る」ために不可欠だということです。


「絵を描く」とはどういうことなのか、実際にはどうすればいいのか、「絵を描く」コツはあるのか ―― 原文読解の真髄に、じっくり取り組んでみませんか。

12:58 午前 翻訳・英語・ことば | | コメント (0)

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