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2018.06.05

# 東江一紀さんの『ねみみにみみず』

読み終わってから、改めて帯を締めたら、いや本の帯を見たら、

おもしろうてやがていとしきエッセイ集

と書かれていました。まさに、そういう一冊でした。

残念ながら、生前の東江さんには(もちろん、生後の東江さんにも)面識はないのですが、この本を読み終わった頃には、そのお人柄の1億分の1くらいには触れられたかもしれないという気になった感じがしないでもありません。

そんな私がこの本のことを書いたりするのは、僭越至極恐縮千万呉越同舟傍若無人で、畏れ多くて恐れ入谷の鬼子母神なのですが、まあここは私のブログなので、好きに書きます。


翻訳に携わっている人、翻訳者をめざしている人にとって必読かどうかは分かりませんが、少なくとも

「厄介な仕事だ、まったく」

の章だけは読んでください。山岡洋一さんの『翻訳とはなにか』とは、言うまでもなく文体もスタンスも何もかも違いますが、でもこの短い章に書かれていることって、どれも翻訳という仕事の本質です。

もちろん、東江さんの魅力に触れたければ、そのほかの章もやっぱり読みましょう。本が売れたほうが、ご本人もきっと喜んでくださるでしょうし。


アマゾンでひとつだけ付いているコメントを見ると、『ストーナー』などで東江さんの文体に触れた人にとっては、『ねみみにみみず』の全編に流れる"おちゃらけ"文体は意外なようです。

私などは、どちらかというとデイブ・バリーのシリーズみたいなノリが大好きだったので、この文体は、さもありなんでした。


本書に収められた数々のエッセイ、その洒脱な文章の裏に垣間見える故人の巨大さ。まさに「翻訳の巨人」です。

もちろん、こんな巨人の文章を真似しようとしたら火傷をするに決まっているので、翻訳にしてもエッセイにしても、ただただ名人芸を楽しむのみ。

後進を育てる際の厳しさとやさしさも、ときどき顔をのぞかせます。自分の甘さを恥じ入るばかり。

とは言っても、けっして堅苦しい本ではないので、好きなお酒でものみながら読むというのが、本書の正しい取り扱い方でしょう。私もそうしました。


それなのに、そんな読み方をしていても、読み終わると襟をただしたくなるのが不思議です。その秘密のひとつは、たぶん編集後記にあります。

「変な表記、じゃない、編者後記」

と題した編集後記は、編者を務めた越前敏弥さんによるものですが、これが本書の仕上げです。ただの編集後記ではありません。

東江さんの遺した文章を並べて、おそらくは何度も再読し、再構成しながら東江さんの姿を思い出し、そして最後には、遺影のようにその姿を前にしながら、越前さんは編集後記をお書きになったのではないか――勝手な想像ですけど、そう想像したくなるほど、編者後記まで含めて完成した形になっている。私はそう読みました。

東江さんと越前敏弥さんのことで、どうしても心残りなことがあります。この機会に書いておきます。


東江さんがお亡くなりになったのは、2014年6月21日でした。

私はというと、ちょうど前日から東京ビッグサイトのそばに泊まって、翻訳業界の一大イベントのまっ最中。そう、東京で開催されたIJET-25のちょうど期間中でした。

そして、越前さんには、私がお願いして、そのIJET-25の2日目(22日)にご登壇をお願いしてあったのです。

たしか、21日のうちに越前さんから「東江さんが亡くなった」と連絡があり、委員会側ではこんなチラシも用意していました。

1806051

それでも、越前さんは予定どおり、翌22日にはビッグサイトにお越しくださったのですが、ふだんとは明らかに様子が違っていました。

私はたぶん、哀悼の意すらろくに示さず、ともかく越前さんの登壇するセッションのことしか考えていなかったと思います。

あのときの越前さんのご心中を察していれば、こちらからもっと強硬に、「登壇なんかキャンセルして、あちらにいらっしゃってください」、と申し出るべきだったんじゃないか……。


あれ以来、ずっと気になっていました。

それだけに、編者後記の最後の一文が、よけいに響きます。

01:02 午後 書籍・雑誌 翻訳・英語・ことば |

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