# 翻訳者の不安と自信
自分の翻訳に自信を持っているか。
翻訳を仕事にしている限り、きっと最後までついてまわる問いかけだ。
もちろん、ふだんは一定以上の根拠に立って、つまり自分で説明のできる形で翻訳物を納めてはいる。でなければ、恒常的に仕事なんてできないし、まして翻訳学校で「教え」たり、人様が作った訳文を添削したり評価したりなんてできない。
だけど、根拠があって説明もできることと、自信があることとは、ずいぶん違う。
いっとき自信(のようなもの)を持てても、少し時間が経ってみるとダメダメに見えてくる。ちょっとしたことでも、自分の力量に不安を感じるようになる。しばらく仕事をしていると、なんとか少しずつ回復してくる(でなければ、仕事として続けていられない)。たまさか称賛の言葉をもらったりすると、また自信(のようなもの)を取り戻すが、へたをすると、過信に陥ったあげくに痛い目を見ることもある。
自信を支えてくれるのは、日々の鍛錬だけ。その重さに、ときどき逃げ出したくなることもある。それでも、(ある程度以上)納得のいく訳文ができあがると、翻訳って楽しいと、うかつにも思ってしまう。
翻訳を続けていくというのは、そういう波の繰り返しなんだろう。
「自分の名前で訳書を出す」のが夢とか目標みたいに言われることが多いのは、おそらく翻訳者としての自信のひとつの目安になるからだ。
不安と自信と過信の波間を漂いつづける稼業。自信なんて、蜃気楼のように思えることすらある。
ただ、なんとなく分かっていることもある。
自分の翻訳の良し悪しが分からないなら、それはきっとまだ良くないんだろう
ということだ。言い方を変えると、
人の評価や添削を求めているうちは、まだまだ
なのかもしれないということだ。
だから、自分の翻訳を人がどう評価するか、と気をもみながら待っているよりは、それを何度も読み直して、良し悪しを自分で判断するほうがいいんだろう。たぶん、ある程度以上の自信を持てるレベルに達した人は、みんなそうしているのではないか(もちろん、良し悪しを自分で判断できないうちは、ちゃんと人に見てもらうほうがいい)。
では、訳文の良し悪しは何を基準に判断するのか。それはもう、自分の言語体験しかない。これまでの人生で読み、書き、話し、聞いてきたすべてだ。しっかりした基準を持つためには、たくさん読み、書き、話し、聞くしかない。そのなかで一番、誰にでも手軽にでき、かつ効果的なのが「読む」なのだろう。だから、「翻訳がうまくなりたければ、本を読め」となる。
たくさん読んで、たくさん訳して、たくさん考えて、またたくさん訳す。
本当は、しばらくそういう生活をしたいんだ、たぶん。
11:32 午後 日記・コラム・つぶやき 翻訳・英語・ことば | URL
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