# 柳父章『日本語をどう書くか』
(3/14修正:なんか、タイトルもAmazonのリンクも違ってた~)
自分の不勉強を、あらためて恥じ入っている。
柳父章の著作は、右カラムの書棚にも置いてある『翻訳語成立事情』くらいしか読んでおらず、最近になってようやくこれを読んだ。
こんなことを書くだけでも浅学をさらけ出すことになるが、いやそもそも浅学は広く知れわたっているのだから気にせずに書いてしまおう、私が今までに出会った翻訳関連の本のなかでは、故・山岡洋一氏の『翻訳とは何か―職業としての翻訳』以来の衝撃だったかもしれない。
もっと早く読んでおきたかった一冊だ。
・日本語の「文」とはどんな単位なのか。
・どうして、読点の打ち方は難しいのか。
・助詞の「は」が、なぜ文を超えて効力をもち続けるのか。
・常体と敬体とは何なのか。
・日本語の文末の種類が乏しいのはなぜか。
・「だ」と「である」はどう違うのか。
・「~のだ、~のである」文末はどんな機能を果たすのか。
・英語と日本語のテンスとアスペクトはどう違うのか。
・「~ている」という表現は何なのか。
・漢語(熟語)はどういう性質をもっているのか。
--- といったことの手がかりが、全部この本には載っている。
あくまでも「手がかり」であって、「答え」ではないかもしれない。少なくとも、この本だけで何もかも解決するわけでは、たぶん、ない。
が、上に挙げたような疑問---翻訳者なら何度も遭遇しているはずの---について、今までにきちんと考えたことがあり、別の機会に聞いたり読んだりしていれば、この本を読んでいろいろと腑に落ちるはずだ。
以下、特に印象的だった箇所をふたつだけ引用する。
この熱心な翻訳受け入れ国、日本の翻訳方法は、通常考えられている二言語併用の立場とは本質的に違っていた。それは、彼方の話し言葉をこちらの話し言葉に移し入れる、という方法ではなかった。彼方とこちらの二つの話し言葉の間に、言わばもう一つの日本語とも言うべき、翻訳用の書き言葉を作り出す、という方法によったのだ。
私は日本語学の専門家ではないし、この言説が学問的にどう評価されているのかは知らない。だが、この一文で、翻訳をめぐるいろいろなモヤモヤが、すとんと収まった。
言葉は、その使用者が知って意識している以上の意味を、自ずと心得ている。人が知っているのは、その一部にすぎない。使用者が知っている以上の意味は、いざ使用してみたときの、ほとんど無意識的な、感覚が教えてくれる。語感である。そして、歴史の古い言葉は、この語感が豊かなのであり、逆に新造語は、何与野もこの語感に乏しい。
辞書を引くとき、訳語を選ぼうとするとき、頭の片隅にしっかりとどめておこうと思う。
こんな風に、(私にとっては)ハッとさせられる指摘が随所にあった。翻訳者として日本語を見つめ、英語と日本語という二言語のあいだに立って考えをめぐらすとき、この本は大きい指針になる。
そういうわけで、これから柳父章の著作は、手に入るかぎり読み尽くそうと考えている。
聞くところによると、この本もなかなか "スリリング" らしい。
到着を心待ちにしているところだ。
01:04 午後 書籍・雑誌 翻訳・英語・ことば | URL
この記事へのコメントは終了しました。
コメント