# 翻訳 "支援" ツールという幻想
自分自身が長年のTrados使いでもあり、今でもTrados講習を担当したりしていますが、それでいて、というかそうだからこそ、翻訳 "支援" ツールの限界や危険性については、あちこちで論じてきたつもりです。
翻訳 "支援" ツールが本格的に登場してもう20年。
そろそろ、翻訳 "支援" ツールなんて幻想だということを、業界全体で認め、アプローチを変えるべきときに来ているのではないだろうか、そんな話をまとめてみました。
・翻訳 "支援" ではなく、翻訳 "業務支援" ツールだということ
・翻訳メモリー
・必然的な品質の低下
・低下した文章への慣れ
・せめて、囲いこみを
1. 翻訳 "業務支援" ツールということ
前から言っていることですが、CATツールは翻訳 "支援" ツールではなく、翻訳 "業務支援" ツールです。
これは、成り立ちの経緯から考えればごく当たり前と言えます。
CATツールは「翻訳にかかる経費をおさえたい」という発注側の発想から生まれました。具体的に言うと、「同じ翻訳に何度もお金を払うのは無駄だ、なんとかしてくれ」という注文です。
そこには当然、「効率改善」も含まれますが、これも「翻訳の効率」ではなく「翻訳業務の効率」です。
「翻訳品質の向上」という考え方も、多少はあったかもしれませんが、そこでいう「品質」というのは、せいぜいが用語の統一(もう一歩進んだとして、表現の統一)まででしょう。原理的に言って、CATツールがそれ以上の品質向上につながるわけがありません。むしろ、品質の低下を招いているはずです(この点は後述)。
どんな点から考えても、翻訳者からの要請で生まれたものではありません。
用語や表現の統一程度の「品質の保証」なら、(心ある)翻訳者なら自分でやっていたでしょう。「効率化」も同様で、(気のきいた)翻訳者なら自分なりの効率化を図っていました。
発注側や翻訳会社が、「翻訳者の負担を減らそう」と考えたのではないことも明らかです。だって、もしそうなら、「マッチ率によって単価に傾斜をつける」のはおかしいからです。
なかには、指定されてではなく自主的にCATツールを使っていて、「傾斜単価に利用されてはいない」とか、「自分なりの効率化と品質向上に有効」という人もいるようですが、それは例外的でしょう。翻訳品質については、なにか別の形で補っているはずです。そもそも、この後で述べるように、自分の過去訳を参照するのなら一般のメモリー運用とはだいぶ事情が異なります。
2. 翻訳メモリー
CATツールの成果で唯一、翻訳メモリーという名のデータベースは、限定付きで意味があると思っています。Tradosなどで実現されている、あいまい検索まで可能なデータベースです。
Google先生も、かなりアバウトな検索結果を出してくれますが、あれは広すぎます。翻訳メモリーのあいまいさ加減は、過去の翻訳を検索・参照するときには確かに便利です。
ただし、翻訳メモリーが便利なのは
自分の過去訳を参照する
ときに限ります。他人の残した既訳---運用されているたいていの翻訳メモリーはこれです---は、実はほとんど参考になりません。なぜなら、翻訳メモリーというのは、まさに
メモリー = 記憶
であるべきで、そこには原文と訳文だけでなく、
訳したときの思考経路
まで残っていなければならないからです。自分の過去訳であれば、翻訳メモリーに残っている原文と訳文だけでなく、自分自身の
メモリー = 記憶
の中に、その思考経路が残っているものです(よほど古いとダメなこともありますが)。「ああ、この案件で、あのときのファイルでは、あんな表現はこう訳したんだっけ」みたいな。
他人が残した既訳にそんな関連付けはありません。しかも、メモリーを使う以上は「既訳に合わせる」のが大前提です。すると、どういうことが起きるのか---
3. 必然的な品質の低下
訳したときの思考経路をたどれないまま、「既訳に合わせ」て他人様の既訳をなぞったり、部分的に利用したりして、ちゃんとした訳文を書くのはかなり大変です。容易に、変てこな日本語になってしまいます。
必然的に、翻訳メモリーを使って訳し終えた全体の翻訳は、前のバージョンより劣化します。同じメモリーを使い続けていけば、たとえば同じ製品のマニュアルは版を重ねるごとに、どんどん劣化していくはずです。
かつては、いったん大きい翻訳プロジェクトが終わると、最終版を仕上げつつ、終わったメモリーを精査するというプロセスを経ている会社もありました。おかしな既訳を直すとか重複を削除するとか、そんな作業を私もかつてやっていました。
でも、今やどこでもそんなことしてないようです。その証拠に、心ある翻訳者がCATツールを使っている現場には、必ずと言っていいほど「このメモリー使えない~!」という怒号が飛び交っています。
もちろん、一律に「既訳に合わせてください」ではなく、「既訳がおかしかったら、どんどん直してください」と言ってくる会社もありますが、それって、そもそもCATツール使うという前提が破綻しています。
4. 低下した文章への慣れ
そうやって、成果物が劣化し続けて20年以上経った結果どうなったか。
たぶん、日本中のユーザー全体が
おかしな日本語に麻痺
してしまいました。
たかだか20年ですが、その間に情報の密度がどんどん濃くなってきたからでしょうか、ユーザーが麻痺という方向に適応するには十分な時間だったようです。
あげくの果てに読まされるのが、こんな文章です。
より速くよりスマートに翻訳しながら、統一感のあるブランド展開を実現します。 SDL Trados Studioは、翻訳プロジェクトおよび企業用語集の編集、レビュー、管理を行う言語サービス部門向けの包括的な翻訳環境を提供します。 世界中の20万人を超えるプロの翻訳者が信頼するソフトウェアで、世界トップクラスのローカライズ済みコンテンツを提供し、グローバル市場での販売やマーケティング活動をサポートしましょう。(http://www.sdl.com/jp/cxc/language/translation-productivity/trados-studio/)
これが、2/29時点で SDL Trados Studio 2015 のトップに出てくる日本語です。
ちなみに、原文はこう。
Translate faster and smarter while presenting a unified brand to the world. SDL Trados Studio is the complete translation environment for language professionals who want to edit, review and manage translation projects as well as corporate terminology. Deliver world-class localized content to support your global sales and marketing efforts with software trusted by over 200,000 translation professionals worldwide.
トップに堂々とこういう日本語を出しているということは、これがこの会社の考える
スタンダードな日本語
ということになりますよね。
市場シェアトップのCATツールが、そういう会社の製品であるという事実は、もっと知っておくべきでしょう。
5. せめて、囲いこみを
たぶん、IT 業界、特にローカリゼーション業界はもう手遅れでしょう。この20年間の流れを逆転させることはできません。IT 界隈は、上に挙げたような日本語に毒されきっていて、ユーザーももう慣れっこになりました。
こんな日本語でいいのなら、これからもどんどん翻訳 "支援" ツールを使っていけばいい。が、せめてこんな日本語は IT 業界だけに囲い込んで、そこから外には出てこないようにしたい。
同じ IT でも、Web ページやマーケティング素材にCATを使わせるところがありますが、まったく意味ありません(そういう案件が、私のところにも来ますが、ぜんぶベタで訳してからCATツールに流し込むという本末転倒で対応しています)。
翻訳 "支援" ツールというのは幻想だったと、業界もそろそろ認めてはどうでしょうか。少なくとも、そういうウソはやめたほうがいい。
10:41 午前 翻訳・英語・ことば TRADOS | URL
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コメント
ごぶさたしています。
私自身、最近(自分の)日本語の劣化や思考停止について考えることが多かったので、記事、興味深く拝読致しました。
私は医療機器メインの翻訳者ですが、最近、ツール使用の有無を確認されることも多くなりました。特に、納期と低価格による競合からか、業界全体が「ツールありき」の方向に動いているようにも感じられます。
翻訳を離れても、世の中に「?」と感じられる(少なくとも私には)日本語が増えてきた現状を考えれば、世の中全体が、一部を除いて「多少おかしな日本語でも意味が分かればOK、それよりもとにかく早く情報がほしい」の方向に流れていくのかなと、たとえそれがもっと大きな流れの中での言葉の変化なのだとしても、寂しく悲しく思えます。
記事を拝読し、せめて自分は「きちんとした日本語を書く」翻訳者でありたいと再度自戒しました。
長くなってしまってすいません(汗)
投稿: Sayo | 2016/02/29 12:10:32
Sayoさん
こちらのコメント、ずーっと返信してませんでした。すいません。
> 業界全体が「ツールありき」の方向に動いている
私が知りたいと思っているのは、たとえば翻訳会社やソースクライアントが、本当に支援ツールで楽になっているのかということです。
IT系だったら確かに、大量のファイルを抱えることになるのでツールがないと立ちゆかないとは思うのですが、それ以外の分野は、ツールベンダーの営業に踊らされて導入しているだけという側面もあるのではと思っています。
その辺、翻訳会社の方の本音を聞いてみたいところです。
投稿: baldhatter | 2016/05/04 15:41:08