# 『翻訳語成立事情』より
ちょっと前に、『翻訳語成立事情』(柳父章、岩波新書)を再読しました。
黄色版で初版が1982年だから、大学の頃にまちがいなく読んでいるはずで、たぶん倉庫に眠ってると思うのですが、つい買い直してしまいました。
訳語ごとの考察ももちろん興味深いのですが、かつて読んだときと違って翻訳を職業としている今の自分が読んでみて印象的だった点が多々あります。以下、それを引用してみます。
■
「社会」という翻訳語がいったん生まれると、society と機械的に置き換えることが可能なことばとして、使用者はその意味について責任免除されて使うことができるようになる。(p.8)
このころつくられた翻訳語には、こういうおもに漢字二字でできた新造語が多い。(中略)外来の新しい意味のことばに対して、こちらの側の伝来のことばをあてず、意味のずれを避けようとする意識があったのであろう。だが、このことから必然的に、意味の乏しいことばをつくり出してしまったのである。
そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分らなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。(p.22)
■
この思考の行き詰まりのところで、「独一個人」という翻訳語が登場した。それは、あたかも思考の困難を解決するかのごとく現れている。この未知のことばに、それから先は預ける。前述の「カセット効果」に期待するのである。ことばは正しい、誤っているのは現実の方だ、というところで、一見、問題は解決したかのごとき形をとる。それは、以後今日に至るまで、私たちの国の知識人たちの思考方法を支配してきた翻訳的演繹理論の思考であった。(p.40)
■
人がことばを、憎んだり、あこがれたりしているとき、人はそのことばを機能として使いこなしてはいない。逆に、そのことばによって、人は支配され、人がことばに使われている。価値づけとして見ている分だけ、人はことばに引きまわされている。(pp.46-47)
■
つまり、翻訳に適した漢字中心の表現は、他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日常語表現を置き去りにし、切り捨ててきた、ということである。そのために、たとえば日本の哲学は、私たちの日常に生きている意味を置き去りにし、切り捨ててきた。日常ふつうに生きている意味から、哲学などの学問を組み立ててこなかった、ということである。(p.124)
■
かつて福沢諭吉は、libertyの翻訳語として、「自由」ということばはよくない、と言いながら、結局この訳語を用いた。おそらく「自由」が、民衆の日常語だったからであろう。それで、自分の書いたものを読む人は、この訳語に気をつけてくれ、というのが福沢の願いであった。しかし、ことばというものは、いったん広く人々の間に流通させられると、それ自身の働きや運命を持つようになる。始めの使用者、造語した人の意のままにはならないのである。(p.185)
「社会」、「近代」、「権利」、「自由」……どれも、今の世の中のことをいろいろと考えさせられる話です。
12:11 午後 書籍・雑誌 翻訳・英語・ことば | URL
この記事へのコメントは終了しました。
コメント