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2008.12.02

# 最後の拠りどころは自分の経験だけ、たぶん

訳語を選ぶとき何を根拠にするのか。

もちろんいろいろなファクターがありますが、結論から先に言うと、「使える資料はいろいろ調べるけど、最終的には自分の経験に基づく総合的な判断が拠りどころ」と言うしかないんじゃないでしょうか。

2008-11-26 - IT翻訳者の疑問 - 簡単な言葉を的確に訳すにはCommentsAdd Star

オーディオ用語としての「解像度」が確立しているのであれば、この言葉を定義している辞典や用語集があると思うのですが、ご存じありませんか?(中略)なぜ採用したかをクライアントに説明できるようにしておかなければなりませんが、Googleで「サウンド 解像度 オーディオ」を検索したらたくさんヒットしたのでみんな使っていると判断した、というわけにもいきませんので

Google の検索結果だけでは根拠にならず、辞書に載っていれば OK という単純な話でもないですよね。

Google の検索結果がクライアントへの説明に使えないとしたら、「辞書に載っていました」だって根拠になるとは限らないわけです。

辞書の間にも権威の差というのがあって、しかもどの辞書に権威を認めるかすら世間一般と専門分野によって大きく違っていたりします。たとえば、海野さんの辞書(『ビジネス技術 実用英語大辞典』)だけに載っている情報は、その辞書の存在すら知らないクライアントへの説明には使えないかもしれません。でも、同じクライアントが「『広辞苑』に載ってました」と言えばあっさり納得したり(だからこそ、読者を適切に想定して訳すことが大切という話になるわけですが、その想定とクライアントの判断が一致しないこともあるから話がさらにややこしくなります、でも、これは別の話)。

「Google の検索結果をどう使うか」というのも、基本的にはこうした辞書間の違いと同列の話でしょう。同列が言いすぎなら、少なくとも同じ話の延長上くらいにはあると言えるでしょう。ネット上にだって使える情報と使えない情報がある、それと同じように辞書の情報を使えるかどうかも結局はコンテクスト次第です。

最終的に訳語を選ぶのは、コンテクストを判断する翻訳者自身であり、ネットも辞書もその補助手段というだけのこと。もしクライアントに説明する必要に迫られたら、参考にした出典を示しながらも「自分の判断でこう訳した」と言うしかありません。

山登りするときステッキがあると楽ですが、下り坂でステッキに全体重をかけることはできないのに似ています。

現実問題として、私が接している仕事の範囲では「既存の辞書(ただし手持ちの範囲)にまったく載っていないが、ネットでは用例が見つかる」という単語にはたびたび遭遇します。

最近では collateral という語がいい例で、これについては次エントリで紹介したいと思います。

08:26 午後 翻訳・英語・ことば |

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コメント

私も前に自分のブログで書きましたが、最終的には各自の判断になるし、そこがプロとしての腕の見せ所であり、かつ、実力の一つということでトレーニングをして判断力を養わなければならないところなのだと思います。

自分の外に根拠がなければならないというのは、「我思う故にコレ正しい」と同じくらい間違っているとも思います。どちらも、それを貫くと翻訳にならないという意味で同罪かと。

>> 最終的に訳語を選ぶのは、コンテクストを判断する翻訳者自身

ホント、そうですよね。セミナーなどでは、「我々翻訳者が判断を避けて楽をすれば、その分、読者に負担をかけることになる。読者に負担をかけていいのなら原語で読んでもらえばいい。読者の負担を減らすのが我々の仕事だから手を抜くな」などと言っております。

今回の件については、あちらのコメントに書いた以外にもいろいろと思うことがあったので、自分のブログにエントリーを書く予定です(すでに一通り、書いてあります)。

投稿: Buckeye | 2008/12/02 21:51:45

ただこうした判断で難しいのは、アンビバレントな面があることだと思います。つまり、私は今ここで自分の判断が適切だと思う反面、永遠にそう思い続けていてはいけないのではないかとも思うからです。

例えば私は訳文を納品する前に「辞書やインターネットで十分な調査をし、見直しもした結果、この訳語が最適だ」と判断するようにしています。そうできなければコメントをつけるなどしますが、基本的には上記のように思えるようになることを前提としています。

しかし一方、自分の訳文を1日後、1週間後、1年後、10年後に見直しても完璧だと言えるかと尋ねられたらNOと答えざるを得ません。また「自分のこの訳は一点の曇りもなく、他の誰が訳してもこの訳文を超えることはできない」とも言い切れません。またそう思ってしまうと、進歩が止まってしまうと感じています。

ということで翻訳者は、その場その場で最適と思う判断をしなければならない一方、その判断に固執してもいけないと思う今日この頃です。

投稿: バックステージ | 2008/12/02 22:49:04

ちゃんと議論についていっていないのですが、普通に使われてるから用語集にも載ってるだけかなと思ったのですが。(いえ、もちろん、辞書に載ってればなんでもよいとか、そういうはなしでなく、辞書って作るものだと思います。)

http://www.digitalside.net/audioword.htm

http://homepage3.nifty.com/p_mich/yougo/sub_yougo.htm

http://www.e-headphone.com/word.html

http://dtmnavi.livedoor.biz/archives/50325275.html

http://www.mycar-life.com/dict_k.html
(「音 解像度 オーディオ 用語集」でググっただけです。)

投稿: Sakino | 2008/12/02 23:29:46

あそこでの議論としては、Sakinoさんが例に挙げられたページじゃダメと言われる可能性が高いだろうと私は思います。

最初は「でしょうか」とあって推測にすぎない、2番目は解像度が定義されていない、3番目は「使っているようです」とあって推測にすぎない、4番目は解像度が定義されていない。かろうじて5番目が認められる可能性がありますが、この用語集を作ったところに権威はあるのかと言われればお終いでしょう。

Google検索は参考にしかならず、Googleの検索結果を総合的に判断するという方法ではダメと言われる人を納得させられるものなんて、探す気にもなれません。

  はい、やっぱり書くんじゃなかったと後悔してます。
  前回と同じで本筋から離れて重箱のすみつつきに……

投稿: Buckeye | 2008/12/03 7:50:51

> その場その場で最適と思う判断をしなければならない一方、その判断に固執してもいけない

おっしゃるとおりです。大胆さと慎重さ、自負心と謙虚さ、そんな両面を兼ね備えている必要がありますね。

投稿: baldhatter | 2008/12/03 9:01:31

> 辞書って作るものだと思います

その「作る」プロセスを多少なりとも知っていると、辞書というものの限界もわかるし、ネットで見かける用語集の信憑性についても何となく勘がはたらくように思います。

情報の信憑性を確かめるためには、どうしてもメタなレベルの情報が必用になる --- そういう当たり前のことを大学などで教えてもいい時代です。

投稿: baldhatter | 2008/12/03 9:12:31

> この用語集を作ったところに権威はあるのか

ネットで見つかる用例は、権威というより「世間一般または特定分野における通用度」のモノサシくらいだろうと思っています。

> 重箱のすみつつき

当該エントリの訳文で問題にすべきだったのは、「"解像度" という訳語が適切かどうか」ではなく「"解像度"とか"精細"とか、そういう分野が限定されがちな専門用語を使うコンテクストではなかった」ということなんだろうと思います。

Buckeye さんの最初のコメントの趣旨も実はそう言っているのであって、
>> 解像度うんぬんというのは普通に使います
のくだりは、「ちなみに~」と読むべきですね。

投稿: baldhatter | 2008/12/03 9:37:32

「私」の翻訳歴って、目の前で、WordNetができてきて、それまでなかったランダムハウスが出てはみたけれど、結構困ったちゃんだったのが2版で化け、研究社の大英和は、ほかの辞書を写す鏡のように着実に歩みを続け、海野さんたちの「翻訳者のメモ帳」が彗星のように登場して、小川伸さんのプラスチック用語辞典は、こうやってつくられたのかという個人辞書のすごみを目の当たりにし、学研国語大辞典で、文法研究で使われてきた用例カードが辞書の現場で威力を発揮する現場を見せつけられ、陰もかたちもなかった生化学の辞典が初版、2版、3版、4版と版を重ね、きのう翻訳フォーラムの第二会議室に書きましたけど、ようやく使えるレベルになった特許の用語辞典がほとんど個人によって作られ、スーパートリビア事典が全然文化のちがう日本語に訳され、こうやって書いていくと、たぶん、あと、この50倍くらい書き連ねないと終わらないのでやめときますが(その中に英辞朗は入れたくないので入れない^^;)、そういうのって、全部、誰かが「線引きの責任」を引き受けてできあがってるわけでしょう。

そして、「私」というのは、翻訳者なら誰でも似たようなものだと思っていたのですが。内容は変わるでしょうけど。

ことばの現場で辞書を使う人は、もし「線引きの責任」を共有しないんだったら、仕事をやめた方がいいです。

国研の新しいコーパス(デモ版)を使ったワークショップでも考えてみようかな。

投稿: Sakino | 2008/12/03 14:38:17

辞書や用語集の誕生と進化。自分がそれにどう恩恵を受けているか。それぞれの辞書にどんな限界があるのか --- いくら語っても話は尽きそうにありませんね。

> 全部、誰かが「線引きの責任」を引き受けて

いい表現ですね。ワークショップとまで言わないまでも、今度辞書作りの現場の話を聞かせてください。

投稿: baldhatter | 2008/12/03 17:45:48

「線引きの責任を共有」……その表現、いいなぁ。

どうしたら翻訳者が力を付けていけるのか、みたいな話を山岡さんと何度かしたことがあるんだけど、いつも、「訳文に最終責任を持つ気概がある人は上手になる。その気概がない人は上手にならない。上手にならない人には何をどう教えても上手にならない」という話になるんですわ(そのとおりだと私も思う)。そうだよねぇ……訳文に最終責任を持つ気概があれば線引きの責任だって当然に共有するしで、翻訳の作業一つひとつ、どれも真剣にならざるをえないわけだ。

今までなんとなく、辞書の使い方の巧拙ってテクニカルな話のような気がしていたけど、そんなことないんだ。気づいてみれば当たり前なんだけど。

ということは、辞書の使い方を間違ってる人には使い方を示すんじゃなくて、翻訳に対する根本的な姿勢を変えなきゃいけないって話をすべき??? でもそれって、通じる人には今さらって話だろうし、理解しなきゃいけない人には理解できない話になりそうな気がするなぁ……。

投稿: Buckeye | 2008/12/03 18:07:34

線引きの責任を共有して、はじめて、ことば界の末席に連なれるはずなんです。

投稿: Sakino | 2008/12/04 7:37:44

「自分のブログにエントリーを書く予定」と書きましたがやっぱりやめておきます。

こういうのってどうしても批判することになってしまうし、前にも1回、やってますからねぇ。別にあそこをたたきたいわけでも何でもなく、ただ、もっともな意見だと思ったとき、その一言だけを自分のブログに書くことはないだけなので。補足したいことがあったりしてそれなりの量をかける場合は別でしょうけど、そうでもなければ「ほー」と思って勉強させてもらってお終いですからね。誤解を招きかねないことはやめておこうかと。

投稿: Buckeye | 2008/12/04 11:41:59

> その気概がない人は上手にならない。上手にならない人には何をどう教えても上手にならない」

どんな世界でも当てはまることですね。

> 辞書の使い方を間違ってる人には使い方を示すんじゃなく

いろんなレベルがあると思いますが、たぶんもっと基礎的かつ技術的な話だったりするかも、です。

> 誤解を招きかねないことはやめておこうかと

どうしてあんなに噛み合わないのか、不思議です。私なら「へー、解像度にそういう用法もあるんだ」で終わりですが、単純すぎるのかな(今回はたまたま知ってる用法でしたが)。

投稿: baldhatter | 2008/12/04 15:38:17

> 線引きの責任を共有して、はじめて、ことば界の末席に連なれる

肝に銘じておきます。

投稿: baldhatter | 2008/12/04 15:39:37

前回も今回も、そのくらいでさらっと流してもらう内容だと思って書いたんですけどね。なぜか私が書くと話がこじれちゃうみたいです。あちらでも私以外は変な具合にならないし、私は私でほかでは変な具合にならないわけで……よっぽど相性が悪いんですかね。

投稿: Buckeye | 2008/12/04 17:12:09

> よっぽど相性が悪いんですかね。

たぶん前世からの因縁です :P

こういう説明装置って、人生にはときどき必要です。

投稿: baldhatter | 2008/12/04 17:18:06

鎌田浩毅『成功術 時間の戦略』(文春新書、2005年、680円+税)によりますと、心理学に二対七対一の法則というのがあるそうです。自分のつきあう人は、二対七対一ですべて分類されるということです。

何をしていてもうまくいく相手が二割。いろいろと努力すれば可もなく不可もない人間関係を築ける人が七割。それに対して、どんなに頑張ってもうまくいかない人が一割いるというわけである(P77)。

そして筆者はその一割の人への対処法として、最初から諦めることを推奨しています。

投稿: バックステージ | 2008/12/04 18:14:15

baldhatterさん

>肝に銘じておきます

だから、「..........はず」って書いたんですってば^^;。
いえもう、恐れおおくって、書きながら小さくなってました。

投稿: Sakino | 2008/12/04 18:50:05

> 二対七対一の法則

なるほど。おもしろい説です。
ということは、配偶者を選ぶ場合でもその「ニ」なら最善、「七」ならまだしも、「一」だったら最悪ということですね :)

投稿: baldhatter | 2008/12/04 19:19:26

> だから、「..........はず」って書いたんですってば

私が今年、翻訳フォーラムを初めとしていろいろなところに積極的に顔を出そうと決めたのは、自分の "翻訳の世界" がだいぶ長いこと特定の分野に限られていて、その状況を少し打開しようと思ったからです。

こういう言葉に出遭えることも、その意味でとても価値のあることだと思っている次第です。

投稿: baldhatter | 2008/12/04 19:21:53

> 二対七対一の法則

そしてフリーランス最大のメリットは、一とのつきあいを断ることが可能という点。取引先であっても、そこの仕事なんかいらないってくらいイヤな相手なら断ればいいだけのことですから。がまんして付きあうのもいいけど、それはそれで自分の選択ですからね。

組織絡みだとそういうわけにいかないので会社員とかだと大変なこともありますから。

投稿: Buckeye | 2008/12/04 19:30:45

> ということは、配偶者を選ぶ場合でもその「ニ」なら最善、「七」ならまだしも、「一」だったら最悪ということですね :)

「一」の人とはそもそも付き合わない気がしますが、万が一にも当たってしまったら、「人生は修業の場」「どうせ100年もしたらみんな死ぬ」と自分に言い聞かせるしかない気がします。配偶者よりも、親子を初めとする親戚が「一」の方がもっと大変です。

> フリーランス最大のメリットは、一とのつきあいを断ることが可能という点。

フリーランスで億万長者になることは限りなく不可能に近いですが、人間関係では贅沢できますよね。金銭的な安定と人付き合いのしがらみは反比例とまではいかずとも、相反するもののような気がします。

投稿: バックステージ | 2008/12/04 20:04:13

このエントリ、コメント数の過去最多記録です、たぶん :)
本筋からは離れますが、

> 親子を初めとする親戚が「一」の方がもっと大変

そりゃたしかにそうです。選べませんからねぇ。

> 人間関係では贅沢できますよね

今年は特に贅沢な気分です。


投稿: baldhatter | 2008/12/04 21:14:31

「一」とのつきあいを断れるということは、「二対七対一」なんていうことを考えずに、淡々と正面から言うべきことを言っていくことになんの支障もないということでもあります(言い方とか断り方はその都度考えるにしても)。

発信という行為には、基本のところで、エバンジェリスト(=リスクこみ)の側面があると考えておいてよいのでは?

(うまくいかなかったときに、あぁ「一」かと思えばいいというところで「二対七対一」も生きてくるとは思いますけど。)

投稿: Sakino | 2008/12/05 12:04:37

ああ、やっぱり書くんじゃなかったと大後悔です。あれだけ書いて、結局、翻訳とは何かという枠組みの認識がずれているとわかっただけですからね。いや、まあ、自分にとっては当たり前の枠組みが意外に認識されていないってことがわかったのは大きな収穫ではあるんですが。

  読者が多い翻訳フォーラムでなら、相手との話が変
  な具合になっても回りで読んでいる人たちの役に立
  つからいいやと思えるのですが、ブログは一つひと
  つの読者ってそんなに多くないので徒労感のほうが
  先に立ちます。

この枠組みが大事だって話、一般に、どうやれば伝わるんでしょう。それとも分かる人には分かるけど分からない人には分からないってヤツなのでしょうか。けっこういろいろと考えているらしい人が、前回、今回の2回を通じて結局、まったく気づかれないというあたり、分かる人には分かるの世界なのかなぁというほうに傾いているのですが。そういえば、昔、mixiで「☆通訳翻訳の真髄、ウラ事情☆」というコミュニティを運営していた人との話もほぼ同じパターンだったなぁ……

投稿: Buckeye | 2008/12/13 7:22:59

> 結局、翻訳とは何かという枠組みの認識がずれているとわかっただけですからね。

「枠組み」って厄介なものですよね。人間は大小さまざまな枠の中で生きていくもの ---その最たるものが「文化という檻」--- ですが、その枠に関する理解の仕方が人によって本当に違う。

枠の存在すら知らない人、存在に気づいても自分がその中にいることに気づいていない人。他の枠を認めようとしない人。枠の差異がわからない人...

もちろん、自分がそういう枠をすべて認識しているなどと自惚れるつもりはなく、自分の位置する枠やその外枠には常に敏感でいなければ、と思います。

投稿: baldhatter | 2008/12/14 16:21:15

ホント、やっかいですね。特に自分を囲む枠組みは認識しずらいし。

翻訳の場合、それでもまだしもなのは、一番問題となるのが著者を囲む枠組みと読者を囲む枠組みという他者の枠組みだからまだしも見えやすい点、かなぁ。いや、自分の枠組みも把握できないと他者の枠組みを相対化できないから、結局は一緒、かなぁ。

難しいかどうかはとりあえず横に置いて(^^;)

翻訳を仕事とするプロであれば、枠組みには意識的・自覚的でなければならないと思うんですけどねぇ。枠組みが把握できなければ単語一つでも訳せないし、ましてや文章、文書は無理。言葉が単体で存在することはなく、それが書かれるときも読まれるときも、その背景に人がいるんだから。

そんな風に思うので、翻訳学校で教えたとき、しつこくくり返したポイントの一つが枠組みです。あとは視点に言外の意味、かな。で、そのあたりを統括するチェック方法として「訳文はいじわるに読む」。

投稿: Buckeye | 2008/12/15 6:41:49

> 翻訳を仕事とするプロであれば、枠組みには意識的・自覚的でなければならないと思う

言語というのも枠のひとつですから、複数言語のあいだを行き来しようと思う以上、枠組みを意識するのは大前提ですね。

記録的なコメント数になったこのスレッド、ちょっと稿を改めたいと思います。

投稿: baldhatter | 2008/12/15 18:27:59

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