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2008.07.17

# TRADOS - つづきの話

Trados に関する先日のエントリ、
禿頭帽子屋の独語妄言 side A: # TRADOS - ではどうやって使おうか
に対して Sakino さんからいただいたコメントを受けて、もう少し Trados の話をします。

以下、"Trados" と書くときはおおむね「翻訳支援ツール」と同義です。

翻訳作業のどの部分をどう機械サイドに預けながら機械と一緒に作業していくか(私の言い方としてなら、《どのようなサイボーグとなることを主体的に選択するのか》ということになりますが)というところから、やりなおした方がいいような気がします。

「サイボーグとなることを主体的に選択する」、この比喩は面白い。サイボーグ化として捉えると、そこには生理的な好悪まで含まれてきますから、かなり面白い話になりそうです。ただ、この辺の議論は私などより Buckeye さんたちを交えて展開した方がずっと有意義なものになりそうですので、私としては、自分が判る範囲として

でも、そうすると、ローカライズという、かなり特殊な(そして、それはそれで大切な?)分野を切り落とした議論になっちゃうという批判が来そうだし……うぅぅん。

こちらの方向だけをまず考えてみたいと思います。

まず、ローカライズというのは以前に私も書いたようにもともと翻訳業界の中では特殊な部類ですので、ノウハウを論じるとき「切り落とす」というか別枠になるのは当然だと思います。ローカライズの人はその辺の事情を判っているでしょうから、批判は来ません、たぶん :)

ローカライズやその周辺業界(またはその出身)の人が Trados 擁護的(一概にではないにせよ)になるのは、おそらく長所も短所も知り尽くしているからです。業務上やむをえず使う場合でも、長所だけをうまく使って他の分野にまで応用する場合でも、その短所に振り回されることがない。もちろん「道具に使われる」こともない。Jack さんのエントリ(Party in My Library: TRADOSを使う理由)も、私はそういうことだと理解しています。

実際、個人翻訳者で Trados を使っているのは、クライアントからの要請なりで業務上必要だったから導入したというケースがほとんどでしょう。そういう人たちの中でも、必要とされる最低限だけ使っている場合もあれば、必要とされない場面にも積極的に活用している場合もある。しかしそういった必要もないのに最初から自ら進んで Trados を導入し、活用しているという人はほとんどいないと思われます。

つまり、「はじめに Trados ありき」かそうでないかで意見はずいぶん分かれる。ツールの話というのは、そもそもからして「相性」とか「慣れ」とか感覚的な部分に偏りがちなので、Trados に関する議論が噛み合わない理由の一部はもそんなところにありそうです。

ちなみに、翻訳を仕事にしようと志す人がいきなり Trados を使ったりするのは(産業翻訳業界の傾向を誤って捉えてしまったら、そういうこともないとは限らない)、百害あって一利なしだと思います。もし「初心者歓迎。Trados 購入必須」みたいな翻訳ベンダーがあったら、かなり怪しいと言えるでしょう。

05:10 午後 翻訳・英語・ことば TRADOS |

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コメント

一方で、「スカート丈は膝下2センチ」と決められている人たちがいるところで、「服を着ることの意味やヌーディストは服を着ていることになるのか」なんていう議論をすれば、最初から一群の人々を排除しちゃうことになるのかな、という懸念で「切り落とす」という表現を用いたのですが、もっといろいろな事情で「別枠」になるのであれば、逆に、枠は設けずに、おいしい具があれば鍋をつつきに来るというので、大丈夫なわけですね(この酷暑の中でなんつー比喩。だれも鍋なんて囲みたくないですよね。ソーメン流しでいくことにします)。

「サイボーグ化として捉えると、そこには生理的な好悪まで含まれてきますから」は、ほんとそうなんだと思います。極端ななはし、ツールにつかわれちゃってる状況では、なんというか、人間-機械系として見れば、機械の側の状況は全然ちがうんだけれど、むしろ『モダンタイムス』や『自由を我等に』と共通項があるような状態になっちゃって、サイボーグには、なりきれないんだと思います。「敵に渡すな、大事なリモコン」のリモコンでコントロールするのって、自分の身体に直結した、それこそ、脳の延長線上のような部分なんですよね。

投稿: Sakino | 2008/07/18 1:13:33

> だれも鍋なんて囲みたくないですよね。ソーメン流しでいくことにします

そこにあるネタをみんなでつつく、という意味では鍋ですよね。ソーメン流しじゃ、流れていっちゃったネタは拾えないことになります。この際暑いのは我慢します :)

> 自分の身体に直結した、それこそ、脳の延長線上のような部分

うーん、この感覚の話を翻訳のうえで展開するのは実におもしろそうです。身体感覚、何が自分の脳の延長になっているかということ。翻訳者で言えば、紙と原稿用紙だった時代、ワープロの時代、PC の時代と変遷してきていて、そのどこにいちばんフィットしているかは人それぞれです。TRADOS のようなツール議論にも有効だと思います。

投稿: baldhatter | 2008/07/18 10:36:26

 うん、今だからできる議論ていうのがあるんですよ。接合のかたわれの身体や脳の方も次のフェーズに入っていますしね。でも基本は、「紙と原稿用紙だった時代、ワープロの時代、PC の時代と変遷してきていて、」のそれぞれの変わり目のときに、仕事をしながらその場で何を感じたかという、そのときのアンテナの立て方が問われかねない思考の軌跡なんだと思います。
 そんなことばっか考えていたものだから引き受けることになった仕事をKWIC Finderでチェックしてみました。PC段階での最終版ということになります。ちょっと長いですが、引用させてください。「サイボーグの想像力は、二項対立という迷路――我々が、これまで、我々自身に対して我々の身体や道具について説明してきた枠組み――から抜けだす道筋を提示することができる。こうしたことは、共通言語という夢ではなく、力に満ちた不信心な言語混淆状態[ヘテログロッシア]の夢に関わる。サイボーグの想像力は、新右翼の超特価/超救済説教師たち[スーパーセイバー]の回路に恐怖の鉄槌を打ちこむようなことばでフェミニストたちが会話しているような事態に関わる想像力である。サイボーグの想像力は、機械、アイデンティティ、カテゴリー、関係性、宇宙の物語りといったものの構築と破壊の両方を意味する。スパイラル・ダンスには、女神もサイボーグも加わっているものの、私は、女神ではなくサイボーグとなりたい。」
 最初の版が書かれてから四半世紀近くたっている文章です。今の時期なら、この部分に、「どんなサイボーグになるかを選ぶ」という含意も入ってくるだろうな、と思います。と同時に、このショーバイやってて、「共通言語」や「ヘテログロッシア」について、さて何を語れるようになったんだろうか、というむずがゆい思いも……。
 久しぶりに表紙の絵を見てみました。うぅん、むかしオバサンに見えてた女性が、若いオネエサンに見える……。
http://www.stanford.edu/dept/HPS/Haraway/CyborgManifesto.html

投稿: Sakino | 2008/07/18 15:19:09

あー、そうか。この話は Sakino さんの得意分野につながっているのですね。
この文章を読んでいて、ふと諸星大二郎の漫画を連想しました。

投稿: baldhatter | 2008/07/19 19:40:31

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