« # Vistaを待ちながら | トップページ | # 追悼 »

2006.02.08

# 大人じゃない

リンク: Eyes On the World:風刺画1つで「文明の衝突」

不寛容な宗教のありようには、いいかげんウンザリです。

風刺とかパロディの対象になったときの反応としては---これは個人の場合でもまったく同じだけど---、「鷹揚に笑って済ませるのが大人」というものでしょう。

なぜ今回の風刺漫画がこれほどまでにイスラム世界を刺激したかという説明が東京新聞に載っています。

ムハンマドを含む預言者たちに神は特別な地位を与えた。顔を想像して描くことは、預言者たちに特定のイメージを与えることにつながる。結果、描写により預言者への敬愛が徐々に薄れることになる。私たちはこのドアを開けるべきではない。これがイスラム教の基本的な考え方だ。

その程度のことで「敬愛が徐々に薄れ」てしまうのだとしたら、その存立基盤の脆弱さはまったくもって予想外。自信のないやつほど吼えたがる---そんなつまらない図式であるわけですか?

----------------------
キリスト教とイスラム教という、ともに砂漠に生まれた二大宗教が、程度や方法の差こそあれ、どちらも「不寛容」と「世界化指向」を持ち合わせているというのがなんとも鬱陶しい。なぜ「閉じて」いられないんだろう。

イスラムの神が「預言者たちに特別な地位を与えた」というのは、救世主が処女から生まれたとか、仏陀のご母堂が白象の夢を見て受胎したとかいうのと同様、世界を成立させる装置と虚構だから、どんなトンデモ話があったってかまわない。だが、そうした装置を自分たちの住む「檻」の外に持ち込むことはできないという当たり前のことをわきまえるべきだし、したがって外の人間がそれらについてどう無知蒙昧であろうとそれは当然と諦める(というより無視する)べきだ。

東京新聞での説明はこう続く。

表現や信仰の自由の大切さは認める。だが信仰の自由と、信仰に関する表現の自由は別だ。信仰に関する表現が信徒を傷つけてはならないことは国際社会の常識だ。今回の事態は表現の自由とはまったく別次元で、悪質な冒とくだ。

「冒瀆」とは本来、同じ枠の中でだけ成り立つ概念だ。「死者への冒瀆」という考え方は、人間という枠があるから成り立つ。であれば「神に対する冒瀆」も同じで、そもそも共通の神様を掲げていない限り、その神を冒瀆できるはずもない。イタリア人が、日本人女性の前で「5」を意味する数詞を連呼しても、それはセクハラでも何でもないのとほとんど同一次元の話だと思うのだが。

つまり今回の風刺漫画も、「イスラム教を何も知らない西欧の野蛮人が、何かバカな絵を描いたらしい」くらいに笑ってればいいのだ。冒瀆などと大袈裟に騒ぐ必要はどこにもないのに。

---というような理屈がまったく通用しない頑なさ、一神教の最大の欠点はそこだ。

今あるような宗教から人間が free from にならない限り、"国際社会" なんて成立しない、と改めて結論したくなるような事件でした。

03:05 午後 社会・ニュース |

はてなブックマークに追加

« # Vistaを待ちながら | トップページ | # 追悼 »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: # 大人じゃない:

コメント

この記事へのコメントは終了しました。