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2017.07.15

♭お葬式

先週からずっと、頭のどこかが麻痺していて、本当に書きたいことは書けずにいる。


ので、周辺的なことを書いておく。


一昨年の春、義父が逝去した。ウチの子どもたちのうち、娘ふたり(社会人と高校生)は、通夜も葬式も初めてのことだった。すでに社会人になっている長男にしても、出身高校の先生が亡くなったときから2度目。


それに比べると、自分は子どものころから、通夜・葬式にはずいぶん出てきたんじゃないかと思う。

記憶のある限りでいちばん古いところでは、6歳のとき、3歳下の妹が死んでいる。水の事故だった。

と言っても、さすがに記憶は断片的だ。母は泣き通しだった。葬儀は仏式だったようにも思うが、当時は両親ともわりと真面目なクリスチャン---毎週日曜日には教会に通うくらいの---だったので、仏式に飾ったところに牧師さんも弔問にきたような気がする。

火葬場へ行って、大人に抱きかかえられながら骨を拾ったのは覚えている。

このときの自分の感情については、実はまったく記憶がない。悲しんでいたようにも思えないし、自責の念にかられていたわけでも、たぶんない。実は、いっしょに遊びに出かけ、自分だけ先に帰ってきた。その後ひとりになってから、妹は川に落ちたのだが、それを親に責められることもなかった。

小学校のときは、同級生の親が亡くなり、学級委員としてクラス代表でお葬式に参列するという機会が2度もあった。そのうちひとりは、鉄道自殺だった。


中学・高校になると、同級生の事故死というのもあった。

大学時代には、自殺した友人の葬儀も経験している。

塾教師をやっていたころは、教え子である中学生が難病で亡くなった。ある意味、これがいちばんキツかったかもしれない。

大学時代、わりとなかのよかったヤツも、30代なかばで、奥さんと、生まれたばかりの娘を残して逝ってしまった。

塾教師時代、社葬というのも経験した。しかも、社長のお父さんだと。ああいう悪習は、一刻も早くやめたほうがいい。

英語の恩師も、十数年前に亡くなった。お通夜に参列して以来ずっと不義理をしてきたが、昨年の春、共著が出たときにうかがって、ようやく霊前に捧げることができた。

「死」はふだん、抽象名詞だ。

それが、あるとき突然、形をとって具体名詞になる。

暴力的なまでの突然さ。


02:01 午前 独語妄言 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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