♭この程度で『どろろ』を語るな朝日
今どきの asahi.com の一隅、しかも hon.jp の宣伝を兼ねたページとなれば仕方がないのかもしれないが、1/29 の
asahi.com: 手塚治虫「マンガ記号論」をあらためて考える 『どろろ』 - デジタル読書トレンドウオッチ - BOOK
と題する essay のお粗末さはどうだろう。
映像化不可能といわれていた手塚治虫氏の傑作「どろろ」
CG の表現力がおよそどんな "映像化" も可能にしてしまった現在、今さら「映像化不可能」という陳腐なフレーズが何の売りになるのだろう。そもそも、かつてアニメ化されている作品が、なにゆえ「映像化不可能」なのか(「実写映像化不可能」という表現も見かける)。といっても、これは今回の実写化に当たっておそらく映画会社が掲げたセールスポイントであって、評者・落合氏の責任は、それを何の躊躇もなく安易に冒頭で引用した点以外にはない。
それ以降の記述にも、誤認識や安易な引用があまりに目立つ。特に、『どろろ』原作に関する記述は、ほぼ間違いなく日本語版 Wiki からの引き写しばかりだ。
父親の出世欲が元で48もの部位が欠損して生まれついた百鬼丸(落合氏)
全身に欠損を持つ超能力者(Wiki)
※それとも、"カタワ" を避けるとこの表現しかないのか。
1967年から小学館のコミック誌「週刊少年サンデー」で連載開始。一時中断されたが、(中略)「冒険王」で第二部が再開、一応の完結をする。(落合氏)
~週刊少年サンデー(小学館)で連載するも一時中断、1969年、冒険王(秋田書店)の連載で一応の完結を見る。(Wiki)
※かりにも日本出版学会会員というからには、ここまで同じ言い回しを(何の断りもなく)そのまま借用するのは恥であるくらいの認識は持ってほしい。
手塚治虫や漫画そのものに関する記述に至っては、もう素人同然である。
劇画中心のマンガ界にあって、デフォルメした一定のパターンに当てはめて
手塚の作風と劇画との関係についてのこの記述は明らかに誤り(それこそ Wiki でも調べれば判ることなので詳しくは書かない)。
マンガが、世界を、政治を語りはじめたのである。
別にどろろ(の「ばんもん」)が、世界や政治を語り始めた嚆矢ではまったくない。
ケータイ画面に表示される手塚作品を読むと、解体された一コマ一コマ、すなわち一つ一つの記号がより鮮やかに意味づけされていたことを今さらながら思い知らされることになる。
電子書籍に思い切り肩入れしているのは、評者のお仕事を考えれば当然のことなのだが、「解体された一コマ一コマの持つ意味」と、紙原稿上に作者が構成したコマの配置や流れが生む意味とどちらが漫画作品の本質なのか、それは問うまでもないはずだ。解体されたコマを新しい媒体上で読み解くことの価値は否定しないが、「今さらながら思い知らされ」たというのは、単に漫画読みとしての経験不足の露呈でしかない。
さて、この記事を読んでいちばん違和感があったのは、実は「魔神」という単語だ。原作で「魔神」という単語が使われるのは、父の醍醐景光がそう呼びかけるとき(発端の巻)だけであリ、百鬼丸たちが口にするのは「妖怪」、「魔物」、「死霊」という言葉である。つまり、醍醐景光が契約の相手として呼びかける抽象存在こそ「魔神」だったが、百鬼丸が倒してゆく実体は「妖怪」であり「ばけもの」だったのだ。だから、いくどとなく読み返した記憶の中に、百鬼丸が「魔神と闘っ」たという印象はまったく残っていないのだろう。実は日本語版 Wiki でも「魔神」という単語は多用されているし、ググってもわりとヒットする(ゲームの記事など)から、これもいい加減な引用の一例であろうと勝手に推測する。
映画公開に合わせたただの広告なのだから、と一笑に付してしまえる程度のネタだし、朝日に今さら何を期待するのか、と言われればそれまでなのだが。
06:16 午後 独語妄言 | このエントリ | コメント (0) | トラックバック (0)
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