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2006.12.31

♭「硫黄島」の違和感、その二

なかなか続きをまとめられずに年を越してしまいそうだったが、27 日付の立花隆「メディア ソシオ-ポリティクス」第 93 回に、ちょうどいいキーワードが出てきたので、そこを切り口に再開してみる。

実はそんなこと以上に、私がかねがね安倍首相の政治家としての資質で疑問に思っているのは、彼が好んで自分が目指す国の方向性を示すコンセプトとして使いつづけている「美しい国」なるスローガンである。情緒過多のコンセプトを政治目標として掲げるのは、誤りである。(中略)政治をセンチメンタリズムで語りがちの安倍首相は、すでにイデオロギー過多の危ない世界に入りつつあると思う。

(立花隆「メディア ソシオ-ポリティクス」第 93 回 未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代)

「美しい国」についてはもう今さら論ずる気もないが、「情緒」は、日本人を考えるとき常に警戒しておかねばならないキーワードだ。

『硫黄島からの手紙』で私が違和感を感じたのは、米国編『父親たちの星条旗』と比べたときの非対称性ゆえであり、おそらくこの「情緒」に関する警戒がはたらいたせいなのだろう。

米国編では、英雄という虚像を作り上げられた兵士たちが、戦争遂行のため国家に翻弄される。個人対国家というこの構図は、ハリウッド映画ではごくオーソドックスなテーマであり、最近ではそれを描く手腕にもだいぶ磨きがかかっている。イーストウッドは、その正統的な構図を彼流の手法で再現しているにすぎない。
そして、そこで描かれる個人はあまりに卑小で無力だ。何ごとかを訴えながらも、しかし彼らは国家に押し潰されてしまう。そうした過程と、実際の戦場の惨状を織り交ぜて描くことで、戦争という国家運動のもたらす悲劇と不条理を描き出すことに成功している。

ところが、そんな米国編から一転して、日本編では個人の(美的な)資質ばかりが強調されるのは、いったいどうしたことか。

もちろん、二流以下の日本映画のような湿度があるわけではない。安直露骨なヒーロー像が描かれるわけでもない。どの人物もあくまでも等身大の、それゆえにリアリティのある実在の人物として語られるのだが、たとえば西郷(二宮和也)の目に映った栗林中将の姿は、「与えられた環境の中で可能な限り良心的に振る舞おうとした職業軍人」として一種理想化されてはいないだろうか?
米軍への投降すら考えるほど生き延びたかった西郷が、栗林の遺品であるコルト銃を奪い返そうとするが、それを果たせず結果的に生き残ってしまう。その直後の彼の表情にも、いくばくか美化された何かが感じられないだろうか?
西竹一中佐が兵士たちに語る「自分で判断しろ」という言葉は、あの時代にありえたろのだろうか?

そういう個人の描き方には、容易に「情緒」が入り込む。製作者の意図がどうあろうとも、こと日本人にとっては「情緒」に対する effect のあり方は要注意だ。情緒が動けば理性も知性も跡形なく吹き飛んでしまう、日本人とはそういう国民である(という一面を持っている)ことを忘れてはならない。

おそらくイーストウッドの意図は違うところにあったのだろう。米国人にはその意図が正しく受け止められるかもしれない。だが、日本人にとってあの栗林中将は、あの西竹一中佐は、危険だ。生き延びて担架に乗せられた西郷の表情は、たぶんもっと危険だ。

11:48 午後 独語妄言 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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2006.12.19

♭「硫黄島」の違和感、その一

なぜ今、「硫黄島」なんだろう。

いわゆる「硫黄島」二部作は、10 月下旬から 12 月上旬にかけて相次いで --- しかも異例なことに米国より日本で先行して --- 公開された。そして、12/15 には改正教育基本法と、防衛庁の省昇格関連法が両方とも成立している。

この流れは、何。

ちょっと陰謀史観めいて聞こえるかもしれない。だからこれは、きっと B 面にちょうどいい独語妄言なわけだけれど、今の日本に住んでいて、このくらいの危機感を持つことは無駄ではないだろうと思う。

なぜ今、硫黄島なんだろう。広島・長崎でもなく、沖縄でもなく。言い換えよう。なぜ今、「太平洋戦争末期の日本にこんな優秀な指揮官がいた」という話を映画化する必要があるのだろう。

(続く)

11:27 午前 独語妄言 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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